北条長時

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北条 長時(ほうじょう ながとき)は、寛喜2年2月27日(1230年4月11日)生まれ、文永元年8月21日(1264年9月12日)没とされる、鎌倉幕府の6代執権。北条重時の長男。生まれてきた時、まるでキュウリのような縦長の顔立ちをしており、成長するにつれますますその縦長ぶりに拍車が掛かったため元服時に長時と名付けられた。得意楽器が尺八であり、得意なスポーツは竹馬だったりと、長時自身も長い物が好きだったようである。狼藉者を始末する際には、自前の物干し竿を存分に振るった。後に佐々木小次郎が長時の得物を自らの愛刀の参考にしたと言われている。

人物[編集]

父重時は、幕府の出先機関である六波羅探題に長年勤務し、朝廷の老獪な連中との折衝をそつなくこなし、京都の治安を維持し、また忍性に帰依して撫民政策を推進、民政家としても名声を馳せた傑物だった。その親父と比べると、長時は人当たりこそ良いものの、重時ほど才覚は卓越せず、またキャラも立っておらず、英雄とはお世辞にもいえない、退屈な凡人だったと言われる。しかしそれはあくまで父重時や時頼らと比較しての話であり、長時には長時なりに有能な人物であった。だからこそ、北条時頼から全幅とはいえないだろうが一定の信頼を寄せられ、時宗が成人するまで執権を任された。

事績や逸話を叙述する史料に乏しく、存在感が希薄な長時だが、彼には彼なりの個性があった。長時のエピソードの中でも有名なのは気が遠くなるほどの長話のエピソードであろう。弟の北条時茂北条義政相手に百物語を夜通し延々と聞かせ、この為翌日二人は睡眠不足で立っているのもままならなかったと言う。そのほかにも、寝る時に羊を数え続けて1万6千匹まで数えるのに成功した、小便をする際に30秒間止まることなく放尿し続けたなど、何気に凄いがどうでも良いエピソードを多く持つ。

生涯[編集]

六波羅探題を勤めていた父重時が連署に就任して鎌倉に行ったため、その後釜として宗尊親王の監視役を勤めたが、今まで重時に押さえつけられてきた分の借りを返そうと息を巻く宗尊親王のエキセントリックな振舞いに長時は翻弄されることになる。寝床に立ちションベンされて、さも長時が寝小便をしたかのように扱われて恥をかいたりした事もあった。長時は気の長い人柄で寛容であったため滅多に怒ることはなかったものの、流石に宗尊親王の身勝手な振る舞いに据えかね、時々キレて父重時ばり凄み宗尊親王に親父譲りのあばら折りを仕掛けることもあったが、柔軟な体質の宗尊親王に容易くすり抜けられて逆に長時が脇の下を擽られて悶絶するなど、親王のあしらわれてしまう事が多かった。このため長時の器なんてたかが知れちゃってるよねと京都の住人らは彼を笑い者にしたと言うが、宗尊親王のイビリとも天然ともつかない好き勝手な振舞に夜逃げもせずに我慢したのだからその辺は十分賞賛に値する。

しかしそんな長時のことを案じたのは父重時である。長時に自信と貫禄をつけさせるためにも、連署、あわよくば執権につけさせたいと願う父重時は当時の執権北条時頼を脅してでも長時をせめて連署にゴリ押しで任命させようと画策していたが、中途半端に有能だった長時は逆に時頼に目をつけられ、時宗が成人するまでの中継執権として任命された。こうして晴れて長時は6代執権となったが、僅か2年足らずでポックリ逝ってしまった。そのためあの世で時頼からこっ酷く叱られたらしい。なお長時の逝去に際し、宗尊親王が「名前は長時なのに、長生き出来なくてどーすんの」と哀悼のコメントを述べ、安達泰盛から座布団10枚の代わりにゲンコツを10発貰ったという逸話がある。

備考[編集]

大河ドラマ「北条時宗」では長時は得宗の軛を脱し、自ら政治を主導しようとして懇意の仲である宗尊親王と結託し北村一輝に暗殺されると言う設定になっている。得宗家に立ち向かう気概のある人物として描かれているようにも見えるが、結局は宗尊親王のパシリであり、扱き使われる相手が得宗か将軍かの違いであった。脚本家が長時の器なんてたかがこの程度と馬鹿にしきっている証である。500年以上も後に創作された映像作品でもこんな不憫な扱いを受けている長時は可哀想としか言いようが無い。

先代
北条時頼
執権
第6代
次代
北条政村