尼子晴久
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
尼子 晴久(あまご はるひさ)は出雲国の戦国大名で元W杯日本代表。ポジションはMFで主にトップ下。2列目からの飛び出しを得意としシャドーストライカーの役割をこなす。その微妙かつ巧妙な綱渡り戦術で、微妙な地位を築きながら戦国の世を駆け抜けた。
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[編集] 来歴
尼子氏は毎年2月~3月にかけて解禁されるサケ目 サケ科の戦国大名で近江源氏佐々木氏の亜種。晴久はその5代目当主にあたる。 はじめ詮久(あきひさ)と名乗っていたが晴久に改名。(※改名はしたが出世魚ではない)父政久が早逝したため祖父経久から家督を継ぐ。
出雲の他、因幡、伯耆、備前、備中、備後、美作、ついでに 隠岐と実に8カ国の守護職を兼ねる欲張りさんで、貰えるもんは全部貰っとくわ的な大阪のおばちゃん並みのメンタリティを持つ。
地方出身者の悲しさか都会に出たい願望が強く、中国地方の8カ国を制覇せんとし、更には足利義晴に嫌がらせをすべく播磨に侵入し、三木城主の別所就治を下すことに成功するも、自分だけ除け者にされた大内義隆に逆ギレされ、宣戦布告される。
1540年、アウェイ吉田郡山城に乗り込んで大内義隆の使いパシリになった毛利元就と対戦。一進一退、実力伯仲の黄金聖闘士同士の対決は千日戦争(ワンサウザンドウォーズ)に陥るかもしれん様相を呈したが、その間隙をつき毛利の援軍大内義隆が晴久に幻朧魔皇拳を仕掛けたため敗退。幸いにもこの戦いで一族の尼子久幸が血祭りに上げられたため幻朧魔皇拳による晴久の呪縛は解かれた。
その後勢いに乗った大内義隆が出雲に侵攻。義隆はアナザーディメンション、ギャラクシアンエクスプロージョンなどの異次元殺法で尼子軍を苦しめるが、晴久もセブンセンシズに目覚めたため戦いは長期化。そのうち義隆は新作のエロゲーがやりたくなったため山口に帰ってしまう。
以後山陰地方の地盤を固める一方、大内·毛利は手ごわいが山陽方面は山が高くて登れず、しょうがないから陸路が整備されているザコしかいない美作を経由しいびつな形で勢力圏を東に延ばしていく一方、備前や備中の国人へ嫌がらせ攻撃を連発し、これらを戦争へと巻き込み正に台風の目となる。
しかし毛利元就の策に嵌ったふりをし調子に乗って自分を無視していた、叔父の尼子国久率いるエキセントリック集団新宮党を皆殺しにした晴久は国久の祟りにあい、トイレに行く前に急死してしまった。
[編集] 死後
晴久死後嫡子の義久が家督を継ぐが、毛利氏の乱獲により尼子氏はその個体数が激減。絶滅危惧種に指定されたが、毛利輝元の保護措置により設立された尼子保護センター(安芸国宍道)で義久の人口飼育に成功した。この系統の尼子氏は江戸時代以降も毛利氏の庇護のもと飼育·繁殖を続けた。 (※野生の尼子氏は山中鹿介らに擁立された尼子勝久(国久の孫)の敗死により絶滅)
[編集] 雑記
- ヘアースタイルは祖父経久ゆずりのチリチリパーマ。この特有の髪型は尼子氏嫡流に代々受け継がれる家徴<ワリート>で「テンパー·アマガル(尼子家の天パ)」と呼ばれている。
- 「わしは出雲さえ栄えればそれでよいのじゃ」発言で出雲人のヒートを買う。
- 1558年W杯日本代表。国際Aマッチ出場25試合4得点。
[編集] 関連項目
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