屈原

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悲劇的な最期

屈原(くつげん、紀元前343年ごろ- 紀元前278年5月5日)は、すぐれた才能をもちながら、環境が悪かったために踏んだり蹴ったりの人生を送った、中国戦国時代の悲劇の詩人であるといわれている。少なくとも、彼自身は死ぬまでそう思っていたようである。

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糞真面目[編集]

出だしは悪くなかった。いや、むしろかなりよかった。屈原が生まれたのは楚国の王族の血をひく大変な名家で、彼自身もの中で誇らしげに述べている。

帝高陽之苗裔兮 朕皇考曰伯庸
かわいい頃もあった。

要するに「俺はの家筋で、ちゃんの名は伯庸だ」。どうだ、なんとムカつくではないか。しかしその立派な血統をたどってみると、屈氏は王室と同族ではあるがいわゆる「本家」ではなく、その祖は独断で決行した奇襲作戦が大失敗して首をくくったヘッポコ元帥である。自慢するほどのことではない。

彼は有能な政治家であり、後世の手本として記録されるほどのすぐれた詩人だったが、じつに糞真面目な人物であった。曲がったことが大嫌いで、不正を見つければ直ちに食ってかかった。理にかなわないことはいちいち疑ってかかった。周りの人間にとっては面倒なことこの上ないその性格は、18歳の時に殴り書いた詩『天問』にすでに表れている。

曰遂古之初,誰傳道之?(世界の始まりを誰が伝えたの?)

 上下未形 何由考之?(天地が分かれていなかったって、その根拠は?)

 冥昭瞢暗 誰能極之?(昼も夜も暗かったのなら、何も見えないことが誰に分かったの?)

 馮翼惟象 何以識之?(世界がもやもやで影ばかりだったとどうして分かるの?)

 明明暗暗 惟時何為?(昼が昼で夜が夜なのはどうして?)

 陰陽三合 何本何化?(陰陽が交わったって、どっちが父親でどっちが母親?)

ああ、うっとうしい。天地創造の神話にいちゃもんをつけて何になるというんだ。何かにつけて出典を示すよう求めるところがどこかの百科事典にそっくりである。

こんな嫌なガキでも才能は確かであり、屈原は20歳にして楚王の側近となる。この楚の懐王というのがとんでもないバカであり、人の言うことをうのみにし、ワナがあれば必ずひっかかった。秀才屈原はこのバカに一生振りまわされることになるのである。

つまらん[編集]

アホの懐王様は屈原を信用し、頼りきった。おふれの内容を決めるのも重要な客との接待も全部彼に任せて、自分は奇麗な玉座に座ってごちそうを食べていた。屈原はそのような環境の下、その才能をいかんなく発揮することができた。全てがうまくいっており、アンサイクロペディアとしては実につまらないのであった。

しかし彼の華やかな宮廷生活は長くは続かなかった。ありがたいことである。屈原の転落のきっかけは、一人の廷臣の言葉だった。屈原が最近やたら調子に乗って、「俺に出来ないことはない」などとほざいているというのである。懐王はそれを信じ、それまでの信任はなかったかのように屈原に「おまえ辞めろ」と言い捨てたのである。こうして彼がいなくなったところで、やっと王様は気づいたのである。自分は今まで全然働いていないと。そこに折よく、いや悪しく、策謀にたけ、屈原よりもよほど処世術を心得た張儀という男が現れ、王を見事にはめたのである。当時、大国のに対抗するため、楚を含む他の6国が連合するという「合従説」があり、屈原はこれを支持していた。読売ジャイアンツを打倒すべく、他の球団が手を組むようなものだ。が、連合と口で言うのは簡単でも実際にやってみるとどの国も互いに折り合いがつかず、その内容はグダグダになっていった。 秦の大臣であった張儀はこの説に反対し、秦と6国それぞれの同盟を説き、彼が遊説した国のほとんどはそれに従った。欲深そうな王には土地などのおまけをちらつかせ、強情な王には戦争をけしかけると脅した。どうやら懐王は前者に見えたらしい。大当たりである。

「今同盟を結べば600里が手に入りますよ」張儀は王の耳元で囁いた。周囲の反対を押し切ってその話に乗ったところ、実際に手に入ったのは6里だったので、王は激怒して秦に軍隊をさしむけ、案の定ボロ負けした。それに怒ってもう一回討伐軍を送ったが、さらなる大敗を喫した。それにブチ切れた懐王、今度は張儀をとらえて殺そうとしたが、彼に逆に脅されて結局釈放した上その説に従った。バカにつける薬はない。この間にかつての連合国は楚を見限り始め、やっと復帰できた屈原が関係回復のため奔走したが全部失敗し、楚は孤立した上戦争までしかけられた。終末は近づいていた。

国がボロボロになっていたその時、どこまでも頭の悪い懐王は秦の結婚詐欺にひっかかった。屈原の忠告を無視して有頂天で秦に赴いた王は案の定捕えられて檻の中で死んだ。バカは死ななきゃ治らない。

屈原は再び失脚し、流刑に処された。かつて彼の悪口を王に吹きこんで成りあがった男がその後釜に就いた。かくして元エリートの40歳無職が誕生したのであった。彼は嘆く。

亂に曰く已んぬるかな

國に人無く我を知る莫し

又何ぞ故都を懷はん

既に與に美政を為すに足る莫し

吾將に彭咸の居る所に從はん

「乱世には国に(私のような)人材もないし、私の理解者もいない。どうして国を憂えるだろうか。もはや私に協力してくれる為政者もいない。死んでしまおう」というのである。自分は清廉潔白であるという自負があるらしい。宮廷でうまくいかなかったのはきっとそのせいだろう。

げんなり[編集]

今度ばかりは永遠に復職のかなわないプー太郎となり野に放たれた屈原の顔は青ざめていた。汨羅江」(べきらこうのほとりに立ち、袂に石を詰め込み、今にも水に身を投げようとしたその時、小舟に乗った漁夫が彼に声をかけた。

漁夫の笑顔
「大臣がこんなところで何してるんですか」
「世の中は濁っていて、私だけ清いんだ。みんなが酔っていて、私だけ醒めているんだ。だから追放された」
「本物の聖人は世の中に合わせて移り変わるものです。みんな濁っているなら、なぜあんたも一緒になって泥水をつくらなかったのか。みんな酔っているなら、なぜあんたも酒を飲まなかったのか。それでは自ら追放の道を選んだようなものです」
「髪を洗ったばかりの者は冠も清めてから被り、体を洗ったばかりの者は着物も清めてから着る。汚れるくらいなら死んだ方がましだ」

漁夫はこの堅物に向かってほほ笑み、ウクレレを取り出して弾きながら歌った。

滄浪之水清兮 可以濯吾纓

滄浪之水濁兮 可以濯吾足

「川の水が綺麗だったら冠を、汚かったら足を洗えばいいじゃない」。怪訝な顔をする屈原に、「あ~ああ、やんなっちゃった、あ~あああ、おどろいた」と言い捨てて漁夫は去った。

櫂を漕いで遠ざかっていく漁夫の姿が見えなくなるまで、屈原はその場に立ち尽くしていた。そして我に返ると、流れに足を浸そうと近づいた。彼は川べりに落ちていたBANANAの皮に気付かなかった。

こうして屈原は汨羅江のつゆと消えた。彼を偲ぶ人々は、彼に供えようともち米をこの川に流した。しかし途中で水神がそれを食べてしまうかもしれないと思い、笹の葉で三角形に包んで流すようにした。これがチマキの始まりとされ、これ以後水神は「何か喉がイガイガするなあ」と思いながらもち米を食べている。

関連項目[編集]