探花

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「探花」の項目を執筆しています。

探花(たんか)は、中国科挙制度において、最終試験である殿試における成績第3位の者の名称。首席の状元、第2位の榜眼に次ぐ成績優秀者であり、将来を約束されたが、一方でそれほどの成績優秀者の割には報われない地位でもあった。

科挙制度の頂点[編集]

中国の科挙は6世紀末のの時代から始まり、20世紀初頭のまで続いた。世襲ではなく実力で優秀な官僚を登用するという画期的な制度であったが、ひとたび科挙に受かれば絶対的な権力と莫大な富を築けることから、その競争は激しく、競争率は数千倍にもなった。しかも、庶民の子は受験勉強に必要な大量の書物などを購入できなかったことなどから、自ずと受験者は官僚や豪商の子息に限られた。つまり、もともとインテリ層のなかで競争率が数千倍、東大医学部も真っ青となる数字である。

その科挙においては、試験は主に3段階で行われ、1次試験の郷試、2次試験の会試(これを受験できれば地元ではもはや神童)を合格すると、晴れて「進士」と呼ばれる高級官僚になれる。その数は200~300人と言われる(この段階で競争率数千倍)。そして最終試験である殿試は、基本的に全員合格だが、その順位でその後の処遇が左右される。

その殿試で第3位になるということは、10万人に1人の逸材ということを意味する。プロ野球相撲界における10年に1人の逸材どころの話ではないのである。

探花の役割[編集]

さて、高級官僚が内定した進士は、皇帝から直々に祝宴を賜る。その宴会で、探花は、首都庭園から牡丹を探してきて、それを宴会で披露するとともに、宴会後に一同を牡丹の出所の庭園を鑑賞するのを先導する役割を負っていた。それゆえ彼を探花(タンカ)と称したのである。全国3位の超絶エリートなのに、宴会を中座して花探しの使い走りとは何とも気の毒な話である。

もっとも、探花になるような要領の良い者は、宴会が始まってから首都を彷徨うようなことはせず、殿試の前にあらかじめ適当な庭園に目を付けておく。首都の牡丹園もまた慣れたもので、将来の高級官僚のために段取りを整えておく。そしていざ祝宴の日に探花が来たら、「準備は万端ですよ、その代わり以後何かと便宜を図ってください」と言わんばかりに、に隠した賄賂を渡していた。賄賂文化が強い中国らしいやりとりである。これをツボタンカと称した。

地方派遣[編集]

進士が採用されると、成績1位及び2位の状元や榜眼が中央政府で活躍したのに対し、探花は地方の高級官となることが多かった。全国3位の超絶エリートでありながら、地方回りの過酷な仕事だったのである。まして交通事情も悪い昔の中国で、異教徒も跋扈するような辺境な地に放り出され、そこで着任早々に司令官の仕事である。ときにはあまりの心労に、床に伏して中央に帰る者もいた。人々はこれをタンカで運ばれると呼んだ。

また、辺境の地にあって、常に民衆の反乱や他国からの侵略の危険に晒されていた。ときには探花が斬られることもあったという。しかしそこは皇帝に目をかけられ、将来を約束された高級官僚。探花が斬られれば中央政府の怒りも心頭である。反乱軍や外国軍も、後には引けなくなった。そしていつしか、後に引けない先制打を、タンカをきると言うようになった。

しかし仕事が軌道に乗れば、手下を引き連れて大勢で内陸部を奔り回った。前述の反乱軍や外国軍を除けばほぼ敵無しであり、現地民からは恐れられると同時に畏敬された。探花がやってくると現地民は口々に「タ、タンカが来たぞ!」と叫んだのである。その様は北アメリカ大陸にも伝わり、北米で群れをなして走り回る獣の王もタタンカと呼ばれるようになったほどである。

そして探花も、数年にわたる地方回りを無事に終えると、沙漠の地から中央に戻る日がやってくる。もちろん、莫大な財を携えてである。ときには大河に大きなを浮かべ、資産を満載して都に戻る姿も見られた。近年、同様に中東の沙漠の地から大量の資源を運んでくる船をタンカーと呼ぶのはこれが語源になっている。

首都帰還後[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「タンカ」の項目を執筆しています。

探花は首都に戻ると、国内の困難かつ複雑な案件にも果敢に取り組むことが多かった。しかし抜群に頭脳明晰な探花の思考は、ときに周囲の下級官僚には理解が追い付かないこともあり、しばしば探花の考えは図化され引き継がれた。その複雑怪奇でかつ深遠な思考は、曼荼羅として掛軸にしてありがたがられた。今でもチベットでは、これをタンカと呼んでいる。

職を全うし死する際は、辞世の句を詠んだ。科挙には詩文の試験もあり、探花も例外なく詩文の才能を有した。しかし高齢の探花は、長い漢詩を吟じる体力はなく、短い詩に思いを込めることが多かった。いつしか格調高くも短い定型詩は、タンカと呼ばれることとなった。

死後、中国では土葬の風習が根強く残る中、公衆衛生も深く理解している探花は火葬されることにこだわった。探花の遺体は十分に焼かれ、タンカさせてから埋葬されたのである。