森近ウンペイ

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森近ウンペイ(もりちか うんぺい、1881年(明治14年)1月20日 - 1911年(明治44年)1月24日)は、岡山県出身の社会主義者で、故郷の貧民の救済のために尽力し、無実の罪により刑死した、悲劇のヒーローである。

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生い立ち[編集]

肖像。こんなのを描くのに10分もかかってしまった

森近ウンペイは岡山県井原市の小さな村で、ある自作地主によって産み出された。彼は産まれた瞬間に忘れ去られ、そのまま一年ほど底の方にへばりついていたところをおかみさんに発見された。そのため、戸籍上の年齢より実際は一つ上ということになるのだが、誰も気にしない。上からだと白くてそれなりに可愛く見えなくもなかったのが、引き上げてみるとそうでもなかった。しかし何かには使えるだろうと、親は彼にきちんとを食わせ、学校にもやった。事実彼は農業に向いており、地元の農学校を首席で卒業したのである。1902年には岡山県庁に入った。彼はそこで農政の改革に熱意を持って取り組んだ。小作農を救うべく産業組合の結成を呼び掛けるなど、当時としては画期的な提案をし、よりよい営農の在り方を誰よりも誠意をもって追究していたが、そのクソまじめな性格のせいか、彼は県庁の鼻つまみ者となってしまった。彼の理想は、あまりにも時代を先取りしすぎていたのである。そしてウンペイは、時代に受け入れられなかった人々が少なからずそうなっていったように、次第に社会主義に向かってゆくのであった。

幸徳秋水らの結成した「平民社」の思想に感銘を受けた彼は、同じ職場で疎んじられている者たちを集め、『平民新聞』の読書会、その名も「岡山いろは倶楽部」を結成した。どうだ、いなかっぺいにしては優れたネーミングセンスではないか。しかし、ことなかれ主義の岡山県庁は、この活動をよしとしなかった。当時は、少しでも社会主義的な傾向がみられると、いかなる活動でも「アカ」だとして弾圧されたのである。筆者としては、よりもむしろ茶色に近いのではないかと思うのであるが、そのような細かな違いを考えに入れる余裕は県庁の側にはなかった。「岡山いろは倶楽部」は即刻解散、森近ウンペイは叩き出された。臭いものにはふたをしようというのである。彼はミソをつけたものの、これを肥やしとし、1905年、つぎなる組織「大阪平民社」を立ち上げる。

1906年、同志を求め上京していた彼は日本社会党結成に参加、まごうかたなきコミュニストとなった。結成の際、幹事の職を任されたが、いつの間にかなかったことにされた。翌年から、廃刊していた『平民新聞』発行のため力を尽くすも果たせず、宮武外骨の助けを借り、『大阪平民新聞』を発行する。後年ずうずうしくも『日本平民新聞』と改題し、人は生まれながらにして平等であることや、戦争は貧民を苦しめるだけであること、あまい肥やしのつくり方などを訴えた。『日本平民新聞』で幸徳秋水と活動を共にするも、ウンペイは彼の過激さに次第にウンザリしてゆく。ウンペイにとっては、自らの筆によって今の体制を批判し、私腹を肥やす者どもを糾弾するよりも、農民の明日の飯のために力を尽くす方がよほどいいように思えたのだった。幸徳はそんな彼に激怒した。「目先のことばかり見おって、そんな考えはクソくらえだ。お前なぞ故郷のド田舎で田んぼの肥やしにでもなってしまえ。」そうだ、それがいいや。

悲劇[編集]

1609年、森近ウンペイは故郷に戻り、貧窮にあえぐ地元の農民のために尽力した。自身も上京してからのさまざまな活動のためにスッカラカンであったが、そんなことはどうでもよかった。彼は毎日身を粉にして働いた。彼が行った当時最先端の温室栽培により、村はかつてないほどの収穫を得た。その傍らで、自らの理想とする社会主義の啓蒙活動を行った。ウンペイは土だけでなく、人々の心まで肥やそうとした。彼は飢えて道端に倒れている人を見つけるとすぐ飛んで行き、握り飯をその手からじかに食わせてやった。そうすると人は誰しも目に涙を浮かべ、彼の施しを固辞した。ウンペイは彼らの謙虚さに心を打たれ、ますます農村の改善に精力的にうちこむのであった。

そんな彼を悲劇が襲った。全国の社会主義者をしらみつぶしに検挙していた政府が、彼に目をつけたのだった。幸徳秋水ら過激派と袂を分かつ前の会話が、天皇暗殺未遂事件にこじつけられたのである。帰郷の翌年に彼は国逆者とみなされ、逮捕された。のちに言うところの「大逆事件」の一シーンであった。

さらし首

ウンペイには、12人の大逆事件の被害者の中で唯一助命運動がおこった。唯一である。この村にはよほど人材がいなかったとみえる。村人が助けを求めたのは、その界隈では名の知れたモラリスト、佐藤範雄であった。活力あふれる大工あがりの男である。素朴な農民の宗教であった金光教をほぼ独力で教団化してのけたほどの行動力によって、佐藤は県知事と警察部長をひきつれて上京し、特高警察と直談判を試みた。彼にはたくましい体に加え、ウンペイのオーガニックな臭さとはまた違った臭さがあった。臭さと臭さがまじり合ってすばらしいハーモニーを奏で、助命嘆願は受け入れられるかに思われた。しかし結局判決は覆らず、1911年、30の若さで森近ウンペイは絞首刑に処された。その体は絞首台の上に数十秒とはとどまらなかった。床が落ちた瞬間、頭がこぼれて下に落ちたのであった。それは木の枝に刺され、さらしものにされた。国逆者とされた彼は故郷に埋められることを許されず、田んぼの肥やしにもなれなかった。この悲劇において、彼には何の落ち度もなかった。ただ単に、ウンが悪かったのである。

関連項目[編集]