ハチマンタロウ

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ハチマンタロウ(八幡太郎)は平安時代のヒーロー。ウルトラマンタロウの先駆的存在。一般的には、地球上での通常の姿である源義家(みなもとのよしいえ。1039~1106)として知られている。

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ハチマンの父がいる
ハチマンの母がいる
そしてタロウがここにいる。
空を見ろ 星を見ろ 奥州を見ろ
かなたから せまりくる あかい火を
何かが日の本に おきるとき
腰の太刀が かがやいて
タロウが飛び立つ タロウが戦う
タロウ タロウ タロウ
ゲン ハチマン タロウ

通常は源義家として地球防衛の任務を果たし、戦闘の際には天光丸の太刀が輝いて、ハチマンタロウに変身する。

源頼義(みなもとのよりよし)と平直方女(たいらのなおかたのおんな)の間に生まれた義家は、7歳の時に石清水八幡宮において元服した。その際にハチマンの命を捧げられ、ハチマンタロウが誕生することとなった。以後、普段は源義家として地球防衛の任務に就き、厳しい戦闘の際にはハチマンタロウに変身する、というパターンで戦うことになった。初めからハチマンタロウに変身して戦えば良いのに、というツッコミは野暮である。

アテルイの生まれ変わり、貞任との激闘![編集]

源義家が最初にハチマンタロウに変身することになったのは、前九年合戦(1051〜1062)である。

この戦いで、当代随一の名将だった頼義は陸奥の豪族安倍貞任を相手に大苦戦を強いられる。実は、貞任は、かつて朝廷軍を散々に破った蝦夷の英雄、アテルイの生まれ変わりであり、一般の武将に負けることは設定上ありえなかったのである。1057年に起こった黄海の戦いで頼義側は空前絶後の大敗を喫し、僅か7騎を残して命からがら逃げ出すこととなる。さらに貞任側の追っ手が迫り、いよいよ頼義・義家も命運尽きたかという時になって初めて、義家はハチマンタロウに変身したのだ

ハチマンタロウが用いることができた技については、『陸奥話記』からうかがい知ることが出来る。この大ピンチの中でハチマンタロウが繰り出した技が詳しく載っているのである。まず、「将軍長男義家驍勇絶倫騎射如神」とあるが、「将軍(頼義)の長男の義家は勇ましく絶倫で、神のように馬上から射った」という意味である。絶倫であったということから、馬上から何を「射」ったのかは想像しやすい。「冐白刀突重圍」(相手の刀の間を難なくすり抜け、何重もの囲いを突破した)、「出賊左右」(賊(ここでは貞任軍)の左右に出現した)などの記述からは、一種のワープのような技を用いることができたことがわかる。また、「矢不空発所中必斃」(矢を放てば必ず命中して相手を倒した)という記述からは、必ず当たる誘導弾のような矢を放つ技を持っていたこともわかる(もっとも、この「矢」も、絶倫なハチマンタロウが射たという記述から推測するに、ちょっと異なる矢である可能性がある)。「雷奔風飛、神武命世也」(雷のように走り、風のように飛んだ、その神のごとき武勇は世に知られることとなった)という記述からは、ハチマンタロウが光速で飛ぶことができたこともうかがい知ることが出来る。ちなみに、この合戦が終わった頃に、ハチマンタロウの弓矢の威力を試したというエピソードが知られているが、頑丈な鎧を三重にかぶせたものを見事に射抜いたという。絶対にガードできないを放つのだから、敵わないのも当然である。

そうして世に知られることとなったハチマンタロウであるが、その武勇を以てしても頼義軍は劣勢を跳ね返すことは出来なかったため、頼義は出羽の豪族清原氏に頭を下げて大量の援軍を得ることとなった。大量の味方を得たことで形勢を逆転させた頼義軍は、見事に貞任の籠もる衣川柵を陥落させた。そこで名高い貞任とハチマンタロウの一騎打ちが生じる。逃げる貞任に対して技を繰り出すべく、「衣のたてはほころびにけり!」と叫ぶが、貞任はこれに対して「年を経し糸の乱れの苦しさに」と返し技を放って技を跳ね返したという。ここでは決着が着かなかった両者だが、1062年、厨川柵が陥落したことで貞任は滅ぶこととなった。安倍一族を滅ぼした際に、敵兵1000人の首を髭ごと斬るという荒技をやっており、その時に用いた刀は「髭切」と呼ばれることになる。この「髭切」こそがハチマンタロウの必殺技ではないかという説もある。

沼の主、家衡を倒す![編集]

次にハチマンタロウに変身することになったのは、後三年合戦(1083〜1087)である。

この戦いは清原氏の内紛に過ぎなかったが、成り行き上義家も参戦することとなった。細かいことはさておき、最終的に戦うことになったのは清原家衡(きよはらのいえひら)と清原清衡(きよひらのきよはら。じゃなかった、きよはらのきよはら)の両名であったが、実は、家衡の正体は非常に残忍な沼の主であった。1086年の戦いで、清衡の妻や子どもたちはことごとく家衡の餌食となってしまい、かわいそうな清衡はハチマンタロウに助けを求めることとなった。しかし、棲み家である沼柵(現在の横手市雄物川町沼館)に籠った家衡をハチマンタロウが清衡とともに攻撃するも、敢えなく撃退されてしまう。泥沼の戦いには慣れていなかったようだ。さらに家衡は難攻不落の金沢柵(現在の横手市金沢中野)に主力を移し、近くの西沼で罠を仕掛けて獲物を待ち構えていた。しかし、ここでハチマンタロウの超能力が発揮される。その上空を飛ぶ雁の群の列が乱れていたのを見たハチマンタロウは、妖気を察知し、見事に難を切り抜けたのである。予定の狂った家衡軍は却って苦戦に陥り、泥沼の苦手なハチマンタロウが今度は兵糧攻めに徹したために反撃の糸口が見つからなくなった。這って逃げようとしている家衡はハチマンタロウによって捕まって殺され、家衡の叔父も蛭藻沼(現在の横手市杉沢)に潜んでいるところを見つかって斬られている。

しかし、この戦いでは、前九年合戦と異なり、義家は朝廷から恩賞を賜ることができなかった。

さらばタロウ~7代後に天下を~[編集]

防衛の任務を真面目に果たしていたハチマンタロウだが、それに対する評価が正当でないことから、変身してまで戦うことをやめる。そして、「7代後に生まれ変わって天下を取る!」という置き手紙を残して去っていった。以降の義家は単なる暴れん坊の中級官人でしかなくなってしまう。

ちなみに、「7代後に生まれ変わって天下を」という宣言は、見事に実行されることとなったとみられる。以下の系図を参照のこと。


源為義が義家の孫であるという見解に基づいた系譜)


(源為義が義家の子であるという見解に基づいた系譜)

しかし天下を取ったと言っても、この当時の天下は実質上は武士のものであり、天皇にはほとんど実権が無かった。実際に天下を取ったと言えるのは源頼朝であり、義家から4代(もしくは3代)後の子孫であり、完全なフライングである。生まれ変わった義家が(仮に前世の記憶を持っているとして)、自分の玄孫(もしくは曾孫)の出しゃばりを激しく憎んだ事は、想像に難く無い。

余談だが、この置き手紙を勘違いしたために重大な過ちを犯したのが足利家時である。偶然、置き手紙が足利家に伝わっていたため、義家の血を引く足利家では、「7代後」というのが「足利家の当主で義家から数えて7代後」という意味だと思い込んでいた。別段有力でもなかった足利氏がなぜそのような思い違いをしてしまったのかは不明である。身の程知らずも甚だしい。ともかくとして、ちょうど7代目に当たるのが家時だった(義家 ー 義国 ー 義康 ー 義兼 ー 義氏 ー 泰氏 ー 頼氏 ー 家時)。しかし、家時の代では天下取りが達成できないことが見込まれていたため、家時はなんと、悲観して自殺してしまったのである。遺言として彼は「3代後に天下を取るように」と言い残し、天下取りを先延ばしにするが、孫の尊氏(つまり2代後)も曾孫の義詮(3代後)も結局は南朝に勝ち切ることができず、天下を手に入れることなく没している。勘違いとは恐ろしいものである。

キャラソング[編集]

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鷲の棲む深山(みやま)には
すべての鳥は棲むものか
同じき源氏と申せども
ハチマンタロウは恐ろしや

上記の歌は、平安時代後期のヒット曲全集である『梁塵秘抄』に記載されているものである。意味は、「鷲の住んでいる山奥に他の鳥が住むようなことがあろうか。同じ源氏(これを鳥に喩えている)の中でも、ハチマンタロウは鷲のように恐ろしい(ので他の源氏は近づけない)」というものである。ここでいう「他の源氏」とは村上源氏を初めとする公家の源氏であろう。ハチマンタロウこと義家が院昇殿を果たした1098年当時は、左大臣源俊房・権大納言雅実・権大納言師忠・権中納言雅俊・参議師頼・参議国信などに代表される公家の源氏たちが藤原氏を押しのけて出世していた時期であった。なよなようじうじとした彼らお公家さんたちがハチマンタロウを怖がって院(深山に喩えている)に近寄るのもためらってぴよぴよと鳴いている様子を、鷲の住む山奥に行けないような、か弱い鳥たちに喩えているのであろう。

関連項目[編集]