王明

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「王明」の項目を執筆しています。

王明(ワン ミンorWáng Míng、1904年5月23日―1974年3月27日)とは、中華ソビエト共和国の政治家である。

生涯[編集]

少年時代[編集]

1904年、中国の安徽省は六安県にある何の変哲もない農家・陳家に生まれる(ここで陳紹禹(ちん しょうう)と名づけられる)が、家が貧しかったために間もなく養えなくなってしまい、厄介払いとばかりに両親はまだ幼い陳紹禹を河南省陳家溝(ちんかこう)へと武術(陳家拳)修行の名目で送りだした(その時、両親が介添人からいくばくの金をもらったのは言うまでもない)。が、いざ陳家溝に到着すると先方から「陳家拳は門外不出である」ことを理由に受け入れを拒否(楊露禅によってとっくに秘伝が漏洩していたことは気にしない)されてしまったが、陳紹禹はとっさの機転で出鱈目にでっち上げた家系図を地面に書いて見せ「同じ陳姓であり、またたった800里ほどしか離れていない我々が親戚でない筈はない、よって同族である私を快く受け入れるのが道理である」と強弁したが、結局その努力はなかったこととされた。しかし、捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったもの、陳家の主人から「そんなに口が立つなら、いっそ弁論家とか政治家になってみてはどうだ。武昌に大学があり、そこの教授に知り合いがいるから、紹介状を書いてやる」と、ちょっとおだてられて気を良くした陳紹禹は、あっさりと武術家となる夢を捨てて方針転換、紹介状をもって意気揚揚と湖北省武漢市にある武昌へと向かったのであった。

学生時代[編集]

弁論で頭角を現す。

果たして武昌大学に着いた陳紹禹は、少々不足していた年齢を入学書類上で水増しし、晴れて飛び級大学生として入学を許されたが、いかんせん学資が慢性的に不足している経済状況は変わりなかった。そこで知恵を絞った陳紹禹はまぁまぁ悪くないルックスと持前の弁論術を巧みに駆使して頭の弱い女の子を次々と籠絡してはそのヒモとなり、彼女の実家からこっそりお金や食べ物を持って来させる、ということを繰り返した結果、塵も積もれば山となるの例にもれず、陳紹禹は学生仲間ではちょっとした物持ちとして知られるようになっていた。羽振りがいいものだからますます女の子たちにモテ、モテるからますます貢物が増えて……と、実はこの時が人生で一番楽しかった、というのは本人の述懐である。その後青年共産同盟に加盟、そこでもを巧みに人間関係を利用し、泳ぎ渡っては舎弟を増やして派閥を構成、盤石たる人脈基盤(大学生本人よりも、その保護者に目をつけたのである)を築き上げ、さらに次なるステップとして1925年、中国共産党に入党した。

躍進時代[編集]

リーダーの素質こそは十分に備えていたものの、まだ未知の領域であった共産革命における思想体系を完全なものとして学びとる必要性(少なくとも共産党の実権を握るためには)を実感していた陳紹禹はモスクワ中山大学へと留学、そこで偉大なる革命の父・孫文の提唱していた革命理論とその実践学について大いに学び、そこでも持前の弁論術を駆使してモスクワにも人脈を築き上げてから1930年に帰国、当時中国共産党で実権を握っていた李立三の堕落ぶりについてネガティブキャンペーンを展開、まんまと中国共産党の党首(中央委員会総書記)の座を獲得したのであった。翌1931年にはソ連のコミンテルン本部から中国共産党の代表として正式に指名されたのであったが、これを不服とする毛沢東がいきなり駄々をこね始めた事によって議論は紛糾、結局ソ連本部の意向をまったく覆した形で毛沢東の推薦するソックパペットである博古(本名・秦邦憲)が中央委員会総書記に指名される事となり、陳紹禹の権勢はあっけなく崩壊してしまったのであった。

苦闘時代[編集]

その後、陳紹禹は失地回復とばかりに残された権力地盤を駆使して政治闘争を継続するも、実質上の欠席裁判とも言える遵義会議において「陳紹禹は完全なる悪の枢軸であり、現在苦境(長征の途上)にある中国共産党にまつわる責任の一切合切は彼に帰するものである」という結論が出されてしまい、当然その場にいなかったために反論さえも許されないままに陳紹禹は中国共産党内における影響力の一切を失う事となってしまった。が、そのまま引き下がる訳にもいかず、どこへも帰る場所のない陳紹禹はここに来て王明(ワンミン、おうめい)と名を変えて水面下における活動を展開。どうかして毛沢東の尻尾をつかむべく暗躍したが、彼の残された後ろ盾であったコミンテルン本部が1943年5月に解散してしまった以上、もはやいかなる闘争手段も残されてはいなかった。そして1949年、中華人民共和国の建国後もしばらくは大人しく政務院政治法律委員会主任としてさまざまな法律の制定に寄与したものの、1956年に不穏な空気を察知するや否や「病気治療」という名目で一目散にソ連へと亡命し、辛うじてその後(1960年代~70年代)に待ち構えていた文化大革命の荒波から逃れる事ができたのであった。

持前の嗅覚と弁舌をもって権力の中枢へと昇り詰め、瞬く間に転落してしまったものの、(他の同志たちと比較すれば)安らかな余生を送ることができたのも、彼が自分自身の才覚で動乱の世を生き抜いたからであり「天は自ら助ける者を助く」の通り、振り返ってみれば充実した人生であっただろうと推察される

関連項目[編集]

この項目「王明」は、執筆者がクラックをキメていた可能性もありますが、今はまだクソの山です。より愉快にしてくださる協力者を求めています。さぁ、これを見ているあなたも、恥ずかしがらずに書き込んでみよう! (Portal:スタブ)