評論

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評論とは、現代文における文章区分のひとつ。

概要[編集]

評論文は原則的に筆者の妄想で埋め尽くされている。現実から目を背け、ぼくのかんがえたあたらしいかんがえ(評論の著者が非著名ならそう受け取られるだろうが、学生とは関係ない向こうの世界の著名人なのだから、君たちは謹んで拝聴せねばならない)を世に知らしめようとして人は物を書くのである。

その点で、現代文の問題を解くときには普通の精神で取り組んではならない。そんな考え方もあるなと読み流すつもりで、寛大な心をもって筆者に向き合わねばならない。そうして筆者の考えを問題作成者の意図を汲みながら模範生的に解釈したのちにも、まだ関門は残る。解答用紙に難解な文章を書いてはならないのである。採点者が理解できるような、かんたんでわかりやすい文章にしなければ、彼らは採点を放棄してしまう。あなたがどれほど聡明な頭脳を持っていたとしても、それが正当に評価されなくなってしまうのである。

付言すると、字の汚い者は漢字の書き取りで不利になってしまうことがある。実際には漢字の能力があるにもかかわらず、採点者が読めないからというだけでバツを与えられてしまうのだ。現在これは文部科学省で不公平な取り扱いとして議題に上がり、漢字書き取り問題の廃止が検討されている。

それを踏まえたうえで、某大学の試験で出題された次の記述式問題を解いてみよう。なお、選択肢を選ぶタイプなら、模範生的な選択肢を選んでいけば、本文を一文も読まなくても合格点に達するよう設計されている。

課題文[編集]

以下の文章を読んで、続く設問に答えよ。

 評論は芸術だろうか。芸術だとするなら、どんな種類の芸術だろうか。

 まず、この問題についての「評論」を、次の問いから始めたいと思う。 「評論の芸術性は、文芸全般に通底する芸術性と、いかなる関係を持つのだろうか。」 文芸と評論に一定の類似性がある、というのは容易に合意されよう。しかし、実際のところ、この類似性は「ケンチョ[1]な」ものなのだろうか。 私とあなたは、人間という点において類似している。私と魚は、動物という点で類似している。私と火星は、太陽系に存在しているという点で類似している。この「類似」はどんな意味を持つだろうか。 評論と随筆は、筆者の意見が述べられているという点で類似している。評論と絵画は、何らかの「表現」を希求している点で類似している。評論と法律は、活字の形で生まれる点で類似している。この「類似」はどんな意味を持つだろうか。

 「類似」の意味は、その程度と、問題とする領域で決まる。印刷術について考えるとき、評論と法律を区別する必要はない。しかし、芸術について考えるとき、その違いは無視できなくなるだろう。

 では、芸術に関するこの「イキチ[2]」はどのように決まるのだろうか。 芸術と非芸術について考える際、「実用性」が大きな役割を果たす、と考える人は多い。確かに、「文芸」(芸術)と「法律」(非芸術)を分けるのは「実用性」の有無である、というのは十分理にかなっている。しかし、「建築」はどうだろうか。多少の例外を除いて、建築は非常に「実用的」である。また同時に、建築は一種の芸術とみなされている。したがって、「実用性」は完璧な指標でないガイゼン[3]性が高い。 「建築」は反例として不適切である、と言う人もいるかもしれない。確かに、建築は「実用」と「非実用」が混在している、という見方も可能である。建築の「実用」要素は「非芸術」、「非実用」要素は「芸術」である、という主張もあるかもしれない。

 では、「神話」はどうだろうか。神話を非芸術だと考える人は、恐らくほとんどいないだろう。「今・ここ・私」から見て、神話は明らかに「非実用」だからだ。そこに疑いの余地はない。 しかし、神話を語った人々はどうだろうか。彼らが神話を語ったのは、制御し難い現実を「彩色」するため、そして、「色彩」の中に自らを―不安定な自らを―定置するためではなかっただろうか。とすると、当時の人々にとって、神話は十分「実用的」だった[4]ことになる。 ここで、「彼ら」にとって、神話が「芸術」だったのかを考えようとするのは、一種の知的禁忌を侵すことである。「彼ら」を「我々」のエピステーメーに当てはめようとするのは間違っている。 だが、敢えてその領域に踏み込むとするなら―私たちの考え方を「持ち込む」なら―当時の彼らにとっても「神話」は「芸術」だったのではあるまいか。その「芸術」が我々の「芸術」と多少違ったとしても。

 評論の芸術性を考えるのは、非常に難しい。実用性が正しい指標だったとしても、その「芸術性」は「スペクトル」になってしまう[5]。完全な「芸術」、完全な「非芸術」は存在しなくなるだろう。しかし、芸術の輪郭が定まらなければ、このような議論に本質的な意味はない。

 率直に言って、芸術の定義は、ほとんど定義として機能していない。それは研究者の主観であったり、客観の姿をした妄想だったり、あるいは全く(修辞的な意味でなく)意味をなしていなかったりする。 芸術の定義は錯綜している。錯綜しているからこそ、評論が存在する。 一般常識に追従する文章に価値はない。疑いのない事実を論じる文章に価値はない。概して評論は、知識のはざま、見解のはざま、そして事実のはざまを住処とする。すなわち、評論の芸術性を論じることは、評論の存在理由を論じることにもなるのだ。評論の芸術性、あるいは非芸術性に疑問の余地が無くなる、その瞬間に、評論は存在しなくなる[6]だろう。

設問[編集]

  1. ^ 「ケンチョ」を漢字に直せ。
  2. ^ 「イキチ」を漢字に直せ。
  3. ^ 「ガイゼン」を漢字に直せ。
  4. ^ 「神話は十分「実用的」だった」とあるが、なぜそういえるのか説明せよ。
  5. ^ 「その「芸術性」は「スペクトル」になってしまう」とはどういうことか説明せよ。
  6. ^ 「その瞬間に、評論は存在しなくなる」とあるが、なぜそう言えるのか説明せよ。

模範解答[編集]

  1. 顕著
  2. 閾値
  3. 蓋然
  4. 過去の人物にとって現実は制御しがたいもので、彼らは現実を規定する神話によって自らを世界の中に定置することに成功したから。
  5. 時代背景など、個人は各々異なる知の枠組みを持つので、ある指標を用いて定義した芸術性は唯一性を持たないということ。
  6. 芸術は本質的に錯綜しており、そこから生じる評論は既存の事象に反するものを提示するものであるはずなのに、評論の芸術性が確定されると、評論は錯綜という本分を失うから。

*4~6の模範文章は評論水準ではかんたんでわかりやすい文章だ。

(注)[編集]

模範解答に反感を持つのは常識である。なぜなら小説家と同じく、評論の著者はそんな模範生的なことなど考えもしていないのだから。

関連項目[編集]